幼稚な「ノー」2009-11-07 Sat 12:43
意識は自由をもたらす。自由とは、正しい行為をする自由だけではない。自由の意味がそれだけのものだったなら、それはどんな自由かね? 正しい行為をする自由しかなかったら、それは自由ではない。自由とは、2つの選択肢があることを意味する。正しい行為をするという選択肢、そして誤った行為をするという選択肢だ。自由が意味するのは、「イエス」か「ノー」かを選ぶ権利だ。
これから言うのは微妙なことだが理解しなければいけない。「イエス」と言うときよりも、「ノー」と言うときのほうが、自由な感じがする。哲学的なことを言っているのではない。これは、あなたが自分の内側に観察できる単純な事実だ。「ノー」と言うときにはいつも、自由な感じがする。「イエス」と言うときにはいつも、自由が失われた感じがする。「イエス」とは、自分が服従したこと、身をまかせたことを意味するからだ。そこに自由などあるだろうか。「ノー」とは、かたくなであること、超然としていることを意味する。「ノー」とは、自分を主張していること、自分には闘う準備があることを意味する。 「イエス」と言うより「ノー」と言ったほうが、自分の輪郭がはっきりする。「イエス」はあいまいで、雲のようだ。「ノー」は堅く、岩のような存在感がある。 心理学者たちによれば、子どもは7歳から14歳にかけて、「ノー」と言う回数を増やすのを学んでいくそうだが、その理由もここにある。子どもは「ノー」と言うことで、心理的に、母親の子宮から離れるのだ。「ノー」と言わなくてもよいときでさえ、「ノー」と言う。「イエス」と言ったほうが自分にとっていいときでさえ、「ノー」と言う。 子どもが「ノー」と言う回数を増やすのは、そうしなければならない多くの理由があるからだ。14歳で性的に成熟するときまでに、母親に対して決定的な「ノー」を言わなければならない。そのときには別の女性に恋するようになるのだから。それは男の子にとって、母親に対して決定的な「ノー」を言うことであり、母親に背を向けることだ。その子はこう言っている――「あなたとは終わりだ。ぼくは自分の女を見つけた。ぼくは独立した個人になった。自分の人生を生きたいんだ。自分の好きなことがしたいんだ」 「髪を短く切りなさい」と親が言うなら、子どもは長髪にするだろう。「髪を長く伸ばしなさい」と親が言うなら、子どもは短髪にするだろう。長い目で見てみるといい。ヒッピーが親になったら、子どもが短髪になるのを目にするだろう。子どもは「ノー」と言うことを学ばなければならないのだから。 「清潔さは敬神につぐ美徳」などと親が言うならば、子どもはゴミにまみれて生活する。子どもは不潔に暮らすだろう。風呂に入らない、身だしなみを整えない、石鹸を使わない。石鹸は肌に悪いとか、不自然だとか、動物は石鹸を使わないとか、あれこれと理由をつけるだろう。理由はいくらでも考えられる。だが、深いところを見るならば、そうした理由は、表面の覆いにすぎない。ほんとうのところは、「ノー」と言いたいのだ。そして、あたりまえのことながら、「ノー」と言うには理由がいる。 だから、「ノー」は、自由の感触をもたらす。それどころか、自分は頭がいいという感触さえもたらす。「イエス」と言うのに頭はいらない。あなたが「イエス」と答えるならば、「どうして?」と聞かれることはない。「イエス」と言っているのに、その理由をわざわざ詮索しようとする人はいない。すでに「イエス」と言っているのだから、理由づけや議論の余地はない。あなたが「ノー」と答えるならば、かならず「どうして」と聞かれることになる。それであなたは頭が鍛えられる。あなたには、くっきりした輪郭とスタイルが生まれ、自由が備わる。「ノー」の背後にある心理を観察しなさい。 人間にとって、調和してあることは難しい。人間には意識があるからだ。意識は自由をもたらし、そして自由は「ノー」と言う能力をもたらす。そして、「ノー」と言う機会は、「イエス」と言う機会よりも多い。だが、「イエス」がなければ、調和はない。「イエス」とは調和だ。だが、「イエス」と言っても自由でいられ、「イエス」と言っても独自でいられ、「イエス」と言っても奴隷になることのないほどにまで成長し、成熟するには時間がかかる。 「ノー」がもたらす自由は、とても幼稚な自由だ。7歳から14歳までの子どもには、それもよいだろう。だが、そんな自由にとらわれて、生涯にわたり「ノー」を言いつづける人は、成長するのをやめた人だ。 究極の成長とは、子どもが「ノー」というときと同じ喜びをもって、「イエス」と言えるようになることだ。これは第2の子ども時代だ。そして、途方もない自由と喜びをもって、なんの代償も求めず、無条件に、ためらいなく「イエス」と言える人、純粋で単純な喜びをもって純粋で単純な「イエス」を言える人は、賢者になったのだ。その人は、ふたたび調和のなかで生きている。そしてそのような人の調和は、木々や動物や鳥たちの調和とは、まったく次元の異なるものだ。木々や動物や鳥たちが調和のなかで生きるのは、彼らには「ノー」と言えないからだが、賢者が調和のなかで生きるのは、彼が「ノー」と言わないからだ。そしてこの両者のあいだ、鳥たちとブッダとのあいだに、成長しきらない幼稚な人類全員がいて、どこかで引っかかったまま、いまだに「ノー」と言うことで何がしかの自由の感触を得ようとしている。 「ノー」と言うことを学んではならないと言っているのではない。「ノー」と言うべきときには「ノー」と言うことを学びなさい、だがそこで止まってはならないと、私は言っている。「イエス」とともに到来するより高次の自由、より大いなる調和へと、ゆっくりと、目を向けるようになりなさい。そこには、人の理解を超えるような大いなる平和がある。 Osho, The Book Of Wisdom Vol. 1, #12 より抜粋 |
否定性を投げ出す2009-11-07 Sat 12:41
いつ? : 毎晩、眠る前
瞑想の長さ : 1時間 ステップ1: 狂いなさい! 自分の部屋に入り、鍵をかけなさい。そして、クッションを叩き、鏡の前に立ち自分自身に向かって叫びなさい。今まで決して誰にも言わなかったけれど、いつも言いたかったことを言うがいい。でも、これは内密に行なわなければならない。 あなたが誰かに否定的な感情を感じる瞬間、その相手のひとは問題ではない。要点は、あなたがある怒りのエネルギーを持っているということだ。今、そのエネルギーは宇宙に発散されなければならない。あなたは内側にそれを抑圧するべきではない。 だから、わたしが「表現しなさい」と言うときはいつも、個人的に、ひとりでそうすることを意味する。それは瞑想だ。争いではない。 ベッドの上に座って、気の狂ったようなあらゆることをやりなさい――怒り狂い、乱暴で破壊的なときに人びとがやるようなことを。高価なものを破壊しなければならないわけではない。ただ紙を小さく引き裂き、そこらじゅうに放り投げなさい。価値のないものでいい、なにかを壊しなさい。 ステップ2: 謝りなさい もし公になにかをしたいなら、怒っているその人のところへ行って、彼に言うことができる――「わたしは密かにあなたに怒っていた。わたしはあなたに向かって叫び、ののしり、醜いことを言った。どうか許してほしい。しかし、それはすべて内密に行なわれた。なぜなら、それはわたしの問題だからだ。それはあなたには関係ない。しかしある意味では、それはあなたに向けられていた。そしてあなたはそれに気づいていなかった。だから謝罪が必要なのだ」 これは公の場で行なわれなければならない。それは、人びとが互いに助けるのを手伝うだろう。 自分の恥をさらけ出すことはない。その必要はない。なぜ、不必要に他の人々を巻き込む? なぜ、不必要に自分自身のイメージを醜くする? |
知覚の限界2009-11-07 Sat 12:38
私たちが見るものは何であれ限りがある。感じるものは何であれ限りがある。あらゆる知覚には限りがある。しかし、もしあなたが気づくようになれたら、そのときあらゆる限りあるものが無制限のなかへと消えていく。空を見てごらん。あなたはその限りある部分を見るだろう。それは空に限りがあるからではなく、あなたの視覚に限りがあるからだ。あなたの焦点に限りがあるからだ。しかし、この限界は焦点によるものであり、目によるものであり、空に限りがあるからではないと気づくようになれたら、そのときあなたは、境界が無制限の中へと溶けていくのを見るだろう。存在は無制限で、あらゆるものは他の何かへと溶けている。あらゆるものはその境界を失い、毎瞬、波は海のなかへと消えている――そしてあらゆるものには終わりがなく、はじまりもない。あらゆるものがまた、他のすべてでもある。
木の下に座って眺めなさい。そしてあなたの視界になにがやって来ても、それをただ超えて行きなさい。その先を見るがいい、そしてどこにも止まってはいけない。この木がどこで溶けているのか、ただ見つけなさい。この木、まさにあなたの庭にあるこの小さな木が、その中に存在全体を持っている。それは毎瞬、溶けている。 どこを眺めても、かなたを探すがいい。どこに止まってもいけない。続けて、そして続けなさい。あなたがマインドを失うまで、あらゆる制限されたパターンを失うまで。突然、あなたは啓発されるだろう。存在全体はひとつだ。そのひとつであることがゴールだ。そして突然、マインドはパターンに、限界に、境界に飽き飽きする――そしてあなたが超えることを主張するにつれて、それをかなたにひっぱり続けるにつれて、マインドは外れ、突然落ちる。 そしてあなたは存在を、膨大なひとつのものとして見る。あらゆるものは互いに溶けあい、あらゆるものは他のものへと変化している。 1時間坐ってごらん、そうすればうまくいくだろう。どこにも、どんな限界も作りだしてはいけない。どのような限界があっても、ただ、かなたを見いだそうとしなさい。そして動いて、動き続けるがいい。 |
51,自然に起こるがままに行動する時は、いつでも正しい2009-05-14 Thu 23:25
<OSHOの講話より>
質問:自然に起こるがままでいることは、なぜ私の中にこれほど恐怖を生み出すのでしょうか?構造が何もないと、まさに死のように感じます。この恐怖を、私はどうすれば手放しに、迎え入れることに、喜びに変えることが出来るのでしょうか? おそらく、あなたは、自分が再びもうひとつ別の構造を求めていることに気づいていないのかもしれない。自分が何を求めているのか意識出来るように、私があなたの質問を読んでみよう。 「自然に起こるがままでいることは、なぜ私の中にこれほど恐怖を生み出すのでしょうか?」それは、誰の中にも恐怖を生み出す。というのも、自然に起こるがままでいることは、それが何であろうと、自分の行動に責任を負っているということだからだ。親から、教師から、教授、聖職者、指導者から与えられた条件づけを頼りに――自然に起こるがままでいるのではなく――自分の過去の条件づけから行動したら、恐怖はない。あなたは、自分が独りではないことを知っているからだ。あなたは、自分の行動が認められていることを知っている。 恐怖が生じるのは、自分は独りだということに気づき、訓練すべてに反している何かをやっている時だ。あなたは自分が反抗していることを知っている。自分の親を向こうに回そうとしている、人類が受け継いできた全てのものを向こうに回そうとしている。過去の重荷は山のように大きく重く、まさにヒマラヤのようだが、自分は非常に小さな個人としか思えず、それを向こうに回すのは怖い。つぶされてしまうかもしれないのだ。 自然に起こるがままということは、その瞬間に応答しているということだ――反動ではなく、応答。それが、このふたつの言葉の違いだ。反動すると、それは自分の過去の積み重ねられた知識、体験から生じている。だが、応じると、それは自分の現在の意識から生じる純粋な行動だ――過去の記憶からではなく。これは、あなたの内にある、ふたつの異なった源だ。 記憶は心地よい。というのも、みな同じ記憶を持っているために、誰もがあなたは正しいことをやっていると誉めてくれるからだ。だが、もしあなたが自分の力で行動したら、危険を冒していることになる。それは合わないだろう。まず間違いなく、あなたの周りに築かれている構造には合わないだろう。だからこそ、恐怖が生じる。 だが、私はあなたに言おう、あなたがどういう状況にあることになるのか、何ひとつ分かっていなかった者たちの奴隷になるよりは、恐怖で苦しんだ方がいい。彼らはあなたに固定観念を、問いへの答えを与えているが、その問いがあなたの人生でどういう形で生じてくることになるのか、何も知らないのだ。 自分が直面している状況に応じるためには、記憶ではなく、知性が必要だ。過去から受け継いできたものではなく、覚醒が必要だ。だから、たとえ恐怖が生じようとも――それは自然なことだが――その恐怖をかえりみず、自然に起こるがままでいようと決心するがいい。すぐに、こうした恐怖は消える。 それは、もっともっと、自然に起こるがままにあることから行動するということに過ぎない。そうすれば、自分はひとりの個人であるということがさらにまとまり、しっかりしたものになり、過去があなたの周りに掛けた全ての鎖から自由になる。恐怖は消える。が、それには少し時間がかかるだろう。もし恐怖に耳を貸したら、個人としての尊厳を獲得することは決して出来ない。 木々でさえも個としての在りようを持っている。動物はみな、自分の個としての在りようを持っている。人間が自分の個としての在りようを失ったのは、まさに恥ずべきことだ。だから、全ての恐怖をさしおいて、危険を冒すがいい。勇気を出し、自分の意識に従って行動するがいい。そうすれば、自然に起こるがままに行動している時は、いつでも自分は正しいということがすぐに分かる。あなたは状況に直接応えているからだ。 だが、あなたは訊ねている――「構造が何もないなんて、まさに死のように感じます」。害はない。死ぬがいい! あなたの人生にたいした価値はない。死んだ者たち全員の囚われの身になるよりは、自然に起こるがままに死ぬ方がいい。少なくともあなたは、「私は、少なくともひとつの点で、全ての過去から、そして、宗教、国家、人種、肌の色という全ての牢獄から自由になった」と言うだけの尊厳を得る。 さらに、あなたは訊ねている――「この恐怖を、私はどうすれば手放しに変えることが出来るのでしょうか?」分かるかね? 「どうすれば」とは、またしても自分の記憶に新しい構造を詰め込もうとしているということだ。だが、自然に起こるがままでありうる構造など、ひとつもない。次の瞬間に何が起こるのか、知ることは出来ない。明日が何をもたらすのか、思い描くことは出来ない。だから、どんな構造を築きあげても、どんな宿題をやっても、状況には当てはまらないことになる。 私はどんな宿題も決してしたことがない。学校、カレッジ、大学で、私は担任の教師、教授たち全員に、「私にはどんな宿題も絶対に出さないで欲しい」ということを完全にはっきりさせた。すると、彼らは言った、「しかし、それは変だ。そんなことを言った者はこれまでひとりもいない」 私は言った、「誰かが言ったか言わなかったか、そんなことは私は気にしない。確かなのはひとつのことだけだ。あなたは私に答えてもかまわない、私に聞いてもかまわない、何でもしたいことをしてかまわない――が、私は自然に起こるがままでいるつもりだ。準備などしない」。宿題は準備だ。あなたはあらゆるものをすでに準備している。 あなたは、「この恐怖を、私はどうすれば手放しに変えることが出来るのでしょうか」と訊ねるべきではない。というのも、私があなたに何を言っても、それはまたしてもあなたの構造になってしまうからだ。ただ単純でいるがいい。状況を見出したら、応答するがいい! 恐怖はわきにおいて、自然に起こるがままの反応を楽しむがいい。問題なのは2,3度だけで、あとは恐怖が消えているのが分かる。というのも、自然に起こるがままの反応は、素晴らしい喜び、ハートが素晴らしく開くこと、素晴らしい新鮮さを与えてくれるからだ……まるでシャワーを浴びたばかりのような。 だが、どんな方策も求めてはいけない――「自然に起こるがままでいるには、どうすればいいのか?」――というのも、「どうすれば」とは、まさに構造のことだからだ。「どうすれば」と訊ねてはいけない。やってみるがいい。何も知らずに、無垢なまま、状況に応じれば、そこから手放しの大いなる体験を学ぶことになる。そして、あなたは楽しむ。あらゆるたぐいの恐怖からの自由を達成したからだ。 あなたの恐怖とは何かね? 何を失う? 失うことが出来る唯一のものは、あなたの命だ。が、それはあなたのものではない。それは宇宙のものだ。いつの日か、あなたはそれを失うことになる。だから、どうだと言うのかね? 一週間は七日しかない。月曜日に命を落とそうが、あるいは火曜日に……だから、それは七日間という問題にすぎない。 私は、一瞬の間も、何か失うものがあると思ったことなど一度もない。私には失うものは何もない。それが、自然に起こるがままに行動する自由を、どんな恐怖もなく行動し、言いたいことを何でも言う――世界のあらゆる政府を向こうに回し、世界のあらゆる宗教を向こうに回す、途方もない自由を、私に与えてくれた。それで、私のハートに恐怖の影が少しでも生じるとは思わない。 逆に、こうした愚かな者たちを叩けば叩くほど、私は楽しくなる。というのも、私から見れば、彼らは犯罪者だからだ。私から見れば、彼らは人類に起こった最大の災難だ。こうした者たちを恐れることはない。自分たちの墓に葬られている幽霊を恐れることはない。だが、誰もが、まさに最初から恐怖を注入されている。血が恐怖でいっぱいなのはそのためだ。この恐怖漬けが、こうした犯罪者たち全員が、あなたを支配し、あなたを破壊し、あなたに愛と至福の生を生きさせないことを助けている。 私のサニヤシンに関するかぎり、恐怖が自分の存在の一部であってはならない。恐怖は、あなたの存在の暗い隅にある――。もっと光を当てるがいい。もっと意識を持ち込むがいい、もっと覚醒を持ち込むがいい。そうすれば、恐怖は消える。 恐れる何が、そこにあるかね? 笑う種はいくらでもあるが、恐れることは何もない。笑いこそ、何世紀にもわたって人類を虐待してきた者たちの頭を切り落とす、私たちの剣でなければならない。 OSHO, Om Mani Padme Hum より抜粋 |
50,仮面を脱ぐ2009-05-14 Thu 23:24
<OSHO、ダルシャン日誌、サニヤシンとの面談より>
質問:私達は関係性の喜びに対して、また痛みに対してどうすればもっとオープンになれるかを知りたいのですが。 いくつかのことがある・・ひとつは、正直であること、真実であることから始めるといい。偽りや、仮面や、表面を取り繕うのをやめ始めなさい。そういうものはごく、ごく習慣になりやすい。だから必死でやめない限り、決してなくならない。 すると、たくさんの痛みがやって来るだろう。たとえば、あなたが愛する人と一緒に歩いていて、美しい女性を見かけ、彼女に自分がその女性と彼女の美しさに惹かれる、と言うとする。その女性を自分のものにしたいという強い欲望が起こった・・その女性を手に入れるつもりだというのではないが、そういう欲望が起こっている、と。通常あなた達は、そういうことは自分の女性には言わない方がいいと感じる。たとえ彼女が、あなたのその現場を捕らえたとしても・・だが、あなたの目がそれを表す以上、彼女は何度も現場を見つけるだろう・・。 美しくて魅力的なよその女性を見て、あなたの中に突然欲望が沸き起こったら・・しかも、それは無意識のことだ。今のところ、あなたにはどうしようもない。それは、起こるなら起こる。何か出来るとしても、それが起こってからで、その前ではない。だがそれが起こったのだから、それは起こったのだ。抑圧することは出来ても、他に出来ることはない。 たとえその女性に見つかっても、あなたはそうではないという振りをしたい。そうじゃない・・自分は他のものを見ていたんだと。 偽るのをやめなさい。そうすれば、あなたは痛みに対して傷つきやすくなる。そして、痛みに対して感じやすくなることから始めなさい・・というのは、誰もが喜びに対して開きたがって、痛みに対しては開きたがらないからだ。ところが算術は、痛みに対して開いて初めて、喜びに対しても開くことが出来るということだ。痛みに対して開いていないのに、喜びに対して開くことはあり得ない。 この世で実に多くの人々が、それぞれ喜びを追い求めているのに、みんな苦痛の中にいるのはその為だ。それは、その人達が最初から誤った一歩を踏み出してしまったからだ。 そして、彼女にも本当のことを言わせてあげなさい。彼女の真実を許してあげなさい。彼女に抑圧を強制してはいけない。自由を許してあげなさい。少しずつ、あなた達はそのことの苦い甘さを学ぶだろう。それは苦くもあり、また甘くもある。そして、あなたが痛みに対して自分を開くことが出来たら、誰も、あなたが喜びに対して開くのを妨げることは出来ない。あなたはそれを自分で稼いだのだ。痛みの中に入って行くことで、人は喜びの中にいる方法を稼ぎ、そして覚える。 だから、少しずつ開くことから始めてごらん。そして、それを全部一挙にやり過ぎる必要はない。ん?それでは関係性を壊してしまいかねないからだ。同種療法(ホメオパシー)で進むといい。ゆっくりとだ。自分の本当の顔の小さな一部を見せるだけでいい・・一度に全部の顔を見せることはない。少しずつ仮面をずらして行きなさい。仮面がゆるくなるようにしなさい。 そうすれば、少しずつ彼女の方も非常に幸せを感じるようになるだろう。それは、あなたがオープンになり始めると、彼女がオープンになるのも手伝うからだ。それは相互に働きかける。彼女がオープンになり、あなたは一層勇敢になる。 そして、この開口が痛みをもたらす時、あなたは痛みに新しい質があるのが分かるだろう・・それは非常にリフレッシュするような質だ。それは、痛みに満ちてはいるが清めるような、痛みに満ちてはいてもそれだけの価値のあるものだ。それは何かを・・何らかの統合、何らかの明晰性をもたらす。あなたをより意識的にする。痛みは常に人を意識的にする。この真摯さは、結婚したカップルの通常の親密さとは違う、ある親密さをもたらす。 だから私が言っているのは、痛みに入って行きなさいということだ。それは骨の折れる危険なことだ。何が起こるか分からないが、ひとつだけは確かだ・・痛みの中に入って行くことが出来れば、痛みがあなたからたくさんの不純なものを、あなたの中にある、たくさんの粗雑な要素を洗い流してくれるということ・・あなたをより繊細にし、あなたをより意識的にするということだ。 そして痛みを通じて、あなたは喜びに対しても開くようになる。人が痛みを苦しむ準備が出来ている時、喜びを抑圧する必要はなくなる。私達が喜びを抑圧するのは、喜びに全面的に自分を占領することを許したら、それと共に痛みも入って来ると恐れているからだ。それはもう片側の部分だ・・同じコインのもう一方の側面、それがやって来る。だから、人々は喜びの中に全面的には入って行かない。彼らはごくごくゆっくりと入って行く。 愛し合っている時でさえ、人々は自分を捨てない。コントロールの中に留まる。微妙な制御であり、遠隔操作ではあるが、彼らはそれを続ける。彼らは自分の手の中のどこかに、そのボタンを持ち続ける。何かがあまり遠くに行き過ぎて、境界を超えようとしていたら、彼らはそれを切る。彼らは決して最後の最後までは行かない。自分があまりにも喜びの中に入ってしまったら、痛みという禁止された領域に入ってしまうのではないかという恐怖・・それがそこにある。 だから痛みから始めなさい。そして、もしあなたが痛みに対して開くことが出来たら・・だから泣きたいと思う時があったら、泣いたらいい!自分の女性の前で泣くことが出来ないとしたら、他のどこで泣くというのかね?教え込まれたナンセンスなど、すべて忘れなさい・・男は決して泣かないものだ、などと。もし男が決して泣かなかったら、彼は人間ではない。彼は非人間か、あるいは超人間かだろう。ただひとつ、人間ではないことだけは確かだ。 時には声を出して泣くといい。自分の悲しみを、悲しさを分かち合いなさい。子供のように涙を流しなさい。そして、同じことを私はあなたのパートナーにも言っている。彼女も同じことをしなければならない。そうすれば少しずつ、あなた達は大いなる親密さが起こって来るのに気がつくだろう。それは社会とは何の関係もない。そして、その親密さの中でたくさんの幸せが起こる。あなた達は幸福の中に爆発するだろう。 だが、痛みから始めなさい。そして常に覚えておきなさい。何ごとも、痛みから始めなければならないということを。一緒に瞑想して、あるがままのハートを開きなさい。間違っていることもあれば、腐っていることもあり、誰にも見せるに値しないような時もある・・だが、少なくとも自分が愛する人にだけは、それを見せるべきだ。そうすれば、あなたは彼女が全てを見せることも手伝うことになる。そして、全てのカードが開かれたら・・1枚のトランプも隠していなければ・・親密さはひとりでに起こる。 それは危険なことだ!そこから何が来るかは、決して分からない。だがひとつ言えることは、何が来たとしても、それは美しいということだ。もしそこから別れがやって来るなら、それは美しい、より良いいわゆる結婚よりはもっと美しいものだ。もしそこから結婚がやって来るなら、それは途方もなく美しいものになるだろう。何であれ、親密さから出て来るものはいいものだ。それは、親密さがいいものだからだ。やってみてごらん。だが、それは苦しい道だ・・ OSHO、Got is Not for Sale より抜粋 |

